昭和五十年九月十一日 御理解第二十五節


 「信心は大きな信心が良い。迷い信心ではいかん。一心と定めい。


 大きな信心を頂き、大きなおかげを頂かせて貰わねばなりません。これは一遍に大きくなろうとしてなりませんので、段々信心が分かり神様を段々信ずるようになって参りますところから大きな信心が頂ける。また、大きな願いが出来るようになるのです。
 そこで難しいですけど大きな信心とは大体どういうのを云うのであろうか。私は思うのですけど、どうでも良いと云うこと、ね。どうでも良いと云うこと。同時にそれがおかげと確信できることだと思うですね。
 それがおかげと、そりゃ困った、どうしようかとそれがおかげですかと云える信心。大きいでしょう。どうでもよいと云うのは、もう右とか左とかどうでもよい。これはとかくこの世を自分の思う様にしようと云うことは、大それたことだと、だから結局成行きが果してくれる行き方の事を、まあ成る様にしかこの世はならんのだと云う様なものとは違うのです。やはり私共はです、ものは成る様に成長する様にと云う、祈りと願いをもってです、その事に一生懸命の信心。いわば打ち込みと云うか、それにかけての信心が先ず出来る。そして右と願っとったけれども、左となった時にです、初めてなかなか人間の思う様になるもんではないと、けどこれは神様の御都合に違いはないと云う頂方と、これ程お願いしとったけれども思う様にならなかった、おかげにならなかったと云うて、信心を落として行くと云う二つの行き方があるのです。
 願うても願うても思う様にならない。願えば願い通のおかげを頂く。願うた通りのおかげが成就する時には、これは小さい信心だと思わにゃなりません。
 しかし、その小さいところから信心を進めていく訳ですね。皆どうぞ、こうなります様にああなります様にと云う願い。そして右と願っても左、左と願っても右と云う様なところを通らせて頂く訳です。そういう時には、云うならば私の願いは成就していないけれども、神様の願いは成就している時だと悟らせて貰う、分からせて貰わなければいけません。そしてです、夢にも思わなかった、思いもかけなかった様なおかげが展開して來る。そういうおかげを、云うなら本当のおかげと云うのです。
 今日は皆さんに大きな信心を聞いて頂いておると云うことは、大きなおかげを受けると云う神様の願いなのである。
 大きな信心。それを自分の思う様になると神様も大したことはないと云う様になる。だが、一心と定めいと云う事は右になろうが、左になろうがそれをおかげを頂けれる一心なんです。一心と定めいと云うことは。
 そこで云えれることはね、これは私なりに一心に一生懸命の信心が出来ておらなければ今のどの一つでも出来んです。
 自分の願いが成就すると云う様なことでもです、やはり一心を立てて願いが成就するのです。また一心を立てておるにも拘らず、右と願っても左となり、左と願っても右となると云う一心の信心をしておる。私が熱心の信心をしておらなければです、出来ておると、これ程おすがりしてからね、の事であるから神様の御都合に違いないと云うことになるのです。
 神様の御都合に違いはない。おかげが左右になると云う時にでもです、神様の御都合に違いはない。
 私がそれを悟らせて頂いたのは、そういう願いをさせて頂いた時に、このみすを編んでいるところを頂いた。みすは「すっろこ」と云います。皆さんね、あの紐であれは「すっろこ」を云います。その「すっろこ」が左右になて行って行くでしょうが、ね。左右にならなけりゃ、その時はもうみすと云うのは出来上がっとる時です。此処で最後にみすを奉れと云う様な御教えもありますね。
 一つが馬鹿と阿呆で道を開けと、
 二つが信心辛抱、辛抱しとれば物事整わぬ事がない。
 一都賀福岡の吉木先生の信心、二つ目が信心辛抱さえしとれば整わぬ事はないと云うのが、久留米の石橋先生の信心。
 こりを積ますな、これは三井教会の信心。
 四つ目にありますのが、お道を汚す、信心を汚す、心配をさす、この三つのすを神様から奉れと頂いたことがあります。
 昔これは神愛会での綱領でしたね。いわゆるこのみすを大事にすると云うこと。成程あれだけ信心しよんなさったとにどげんしよんなさったとじゃろうかと思うとったのにと、やっぱりあの様なおかげを頂なさったと。そのおかげ、みすを奉ったときです、私が椛目でみすのお供えがあった時に、もう本当に神様の間違いなさと云うことは、もうこっちの借金払いが済んだときでした。
 大坪さんが信心ばっかりするばってんから、金貸しとるばってん返しはせんと言われた時代からね、それが払えた時にみすのお供えが来ました。今椛目の御神殿にしておるみすがそうです。みすを奉った訳です。
 ははあ、一生懸命信心もし、一生懸命お願いもさせて頂いとるけど、右左となっていく事は、今こそ神様の願いが成就しておる時であって、この神様の願いが成就した暁にはこのみすが奉られることが出来れると云うことです。
 だから右と願って左になっても御礼の云えれる信心が先ず出来なければならないと云うことです。そうしよったら、夢にも思わなかった様なおかげが、それこそ夢思わなかったおかげの展開になって来とる今の合楽です。私の信心で人が助かるなんてゆめ思っていなかった。
 金光様の先生になろうなんてことは、もう一生懸命信心辛抱させて頂いとったけれども、ゆめ思わなかった。金光様の先生になろうと修行したんじゃなかったです。思いもかけないことになってきたのです。
 そういう信心をふんまえて私はどうでもよいと云うことです。どうでもよいと云う信心、達感、達観です。
 人生を達観した人はなるようにしかならんと、だが仏教での達観とは一つの諦めです。だからそういうのではないです。達観ではないのです。もう右と左とは貴方にお任せしましたと云うのです。 だからです、お任せするだけの度胸と信心が出来とらなければ、どうでもよいと云うことは出て来ないです。もう左右はあなたにお任せしました。それでもどうぞ宜しくと云う訳なんです。いやどうぞ右になります様にとお願いします、どうぞ左にして下さいと、これは人に頼んでもそれでは私は本当の働きは出来ない。まあやっちゃあみましょうばってん、なら答ははっきり人間がそうこうなるとは言い得ないです。ね、そこに人間が頼んでも左右はあなたにお任せしました。どうぞ、宜しくと言うときに神様が一生懸命になって下さる様なものです。 任せた時。
 今日はそういう見地からこの大きな信心と云うことを聞いて頂いたんです。大きな信心をしなければおかげは絶対頂けんです。
 どうぞ大きな信心をと願ったところで頂ける筈は在りません。それはどうでもよいと云う精神です。そしてそれがおかげと云えれる信心です。
 先日から今親教会の方で御造営が家壊しがありました。今日が地鎮祭のなっとるのです。それで今日はあちらへ行く訳ですけども、この前の御遷座、いわゆる御遷座祭、神様を元のお広前から二階にお移し申し上げる式でございます。
 朝の幹三郎が月次祭たんびんに必ず参ります。また毎日日参させて頂いとりますから、帰ってきて今日は遷座祭があるげなけんでと云うから、前からお前も装束持って行かなけりゃいけないよと、月次祭たんびんに装束を持ってやらして頂いとる。今日僕に何も云いなされじゃったがと言うです。まあ言いなさらじゃったところで持って行かなければ、他の先生方は見えんかも知れんからと云うて持って行きました。ところがその云われない訳です。そして北野が祭主されて鳥栖が副を勤めておられるんです。だから、賛者として幹三郎が来とるけん云いなさるじゃろうと思うとったけれども、云いなさらん。結局二人でなさいましたんです。又二人で出来るお祭りでもありましたんですけどもね。
 だから、いつも行っておる幹三郎は御用に使うて頂かれんで、それこそ滅多に参って來なさらん鳥栖とか北野、いわゆる身内でもあり内々がありますから、されでと云う訳でありますけどね。そういう時に、以前の私であったら何か嫌な感じがしただろうとこう思うんです。わざわざ幹三郎を連れて行っとるとじゃから、けれどそれがおかげと思うですね。
 今御造営も何か特別の委員会か何かには必ず通知がありますから参ります。けれども、もう肝心なところはもう絶対話されんです、皆が。だから、あれどんが言わんならこっちもそのつもりでと云う気持ちはサラサラありません。もうされるだけのことは立派にさせて頂ながら、それがどげんなりよろうがこげんなりよろうが、そういう事は云うて下さらん方が私はおかげだと思うとります。それがおかげと思うとります、ね。
 まあ、云うならばわしが居らなけりゃ、とても出来はするまいがと云うた心が、例えばあったと致しましょうか、そしたら、一々腹の立つことばっかりだろうと思います。
 言われん事がおかげだと、と云うてなら御造営に関してのこちらからさして頂かんならんことは、もう積極的に本気でさせて頂こうとこう思う訳です。そしてそれがおかげと思える訳です。これが一々相談受けて言われておったら、それこそ私がこの糸が利いとる方じゃから、どげな事じゃい分からん。だから神様がちゃんと適当にブレーキを踏ませて頂ける様にだろうとこう思うから、それがおかげとこう頂ける。云うならば今日も地鎮祭でございますから、幹三郎連れて行きたいと思います。そしてそれに使われようが使われまいがそういう事はどうでもよいです。こういう時にですね、皆さんおかげ頂かにゃならんけど、そういう人がありますね。
 この前こっちは御用さして貰おうと思うて行っとったばってん、言われじゃったけんで、その次りゃあも装束も持たんな行くといった行き方です。
 何かこうこの前のしっぺ返しと云った様なことをよく云う人があります。ここでもこの頃から私にはどおん言いなされんけん、それでよかつかと思いよりますと云う人が、嫌ですね。これは信心のある者の豊かな心からもう外れておるです。
 例えそれが二度目に使われなくってもどうでも良いのです。いや、どうでもよいではない、それがおかげなのです。
 だから、大きな信心とはね、そういう様な信心を云うのだと思います。そしてこちらがなすべき事だけはです、それが御用に使われようが、使われまいがやっぱり今日は幹三郎にお装束を持ってと云うともりです。
 そして、使われるとか使われんとかはどうでもよいのであり、いや、もし使われなかったらそれがおかげであり、使われたらそれがおかげであると云う頂方なんです。
 皆さん、そういう信心を身につけると、残念ですけれど、これは偉大な信心のそれが身に付いて行ったら偉大なおかげにならん筈はないです。だから、そういう信心をさせて頂いて、ちったあ心にかかるけれども、ああここがそれこそおかげと、それこそ思わにゃいけません。そして、どうでもよいんだと云う世界に入って行かにゃいけません。
 今日は角度を変えて大きな信心を聞いて頂いた。大きな信心が良いと云うことは、大きなおかげを受けて呉れよと云う事だと思います。
 迷い信心ではいけぬ。一心と定めいと云うことは、右になっても、云うならば左になっても、それは神様の御都合でありおかげであると、一心と定めねばいけないと云うことであります。
 右と願いよったばってん、左となった。そこに迷いが起こって來るでしょう。そういう事ではいけないでしょうが。それは出たとこ勝負、それがおかげだと、それはどうでも良いと云うことでしょう。またはそれはおかげと思い込ませて頂く信心をさせて頂かねば成りません。
 昨日一寸お話に中に申しました様に、佐田さんところの御親戚の日田の山奥におられる本田さんと云う方が、実に実意丁寧な信心をなさいます。思いもかけない通知が来ました。郵便局からそれはどんなに考えても、家で貰える筈のないところの、その郵便持ちさんに聞かれたら、判を持って行きなさりゃお宅に二十万円すぐ下さるとですよと言わっしゃった。はらすぐ電話かけてから、その佐田さんところにこげなおかげ頂いたと言うてお届けがあった。佐田さんからもすぐここへお届けがあった。ところが翌日になってみたところがそれは違うとったと、こう云う訳です。もうがっかりして佐田さんところへまた電話が掛かってきた。その時に佐田さんの奥さんが言うておられるのが、おかげよとこう云う訳です、ね。
 昨日あちらのお父さんが、昼に参って見えました。もうそれこそ、あちらの山の中の殿様の様な生活をなさっておられたそうです。
 先代頃まで、それがその仏様の様な人、神様の様な人じゃこげな人じゃろうと云う位に素晴らしい良い方なんですがね。これの方(酒呑む格好)がいけるわけです。もう呑んだ虎、狼も辞せないと云う訳です。もう旦那様、旦那様と云うて來ると、この頃からでも自動車を売りに来たら、そんなら買おうと云ったごたる、たんびんに一山賣らんならんと云う位な、一寸云うとおかげじゃるいと云う様な行き方をなさっているのです。生活をしておられる訳です。
 サア、村に道が出来ると云うと、なら家の山を全部、今でもそういう気分の方なんです。もう呑んだら心が大きゅうなる訳です。
 ですからその方の家に、今二十万の現金が入って來るなんてん素晴らしいことなんです。素晴らしいおかげだった訳なんです。
 ところがそれは、一夜の夢で終った訳です。そこでこうこうだった。そういう時にです、それはおかげよと、即言える。そりゃそれはがっかりのと言えば、それまでです。けど、おかげと云う体験を積んだ上に積んでおられるから言えれるのです。がっかりする時程おかげと云うことを。
 昨日御主人が参って見えてから、もうそれこそもう本当にたまがる様なおかげの展開になっておるのです。云うなら、普通おかげと思いきらんことを、おかげと思い切らんことをおかげと思うと云うことは、本当なことが本当と分かった訳です。おかげじゃないことをおかげと思えと云う事じゃない。実はおかげなんです。それを信心の浅い間は、おかげであるとか、おかげでないと云う信心の、右と願えば左、左と願えば右となれば、おかげ頂かじゃった、おかげじゃったと思う様にそこに迷いが起こると云うことにです、此処では一心と、迷い信心ではいかん。一心と定めいと、まあ教えてあるわけです。
 だから一心と定められるために、私共は私共なりに、いつも信心が出来ておりますとです、これ程しおすがりしての信心である事が神様の御都合に違いないと思えて來るのです。そこには、いわゆるどうでも良いと云うのは、投げやりのどうでも良いじゃなくて、神様を信じての左右はもうあなたにお任せしましたと云うこれは表現なんです。どうでも良いと云うことは、同時にそれがおかげ、それがおかげという事です、ね。それを一寸した例でこの間の善導寺の教会の遷座祭と今日また行われる地鎮祭の二つのことでね、そりゃおかげ、そこで自分の心を、これはどうした事じゃろうかと云う様に心を汚したではそれは小さい信心と云わなければなりません。
 だから大きな信心をさして貰うと云うことは大きなおかげを頂くと云うことですから、大きなおかげを願わん者はありませんのですから、その大きな信心にならせて頂く、いわゆる稽古を日々させて頂かねばならんと云うことですね。 どうぞ。